■先日、木村正司先生の議論を引用するかたちで、地域からの「人材」流出構造を 検討してみた。■今回は、その続編である。
■先日は、学術知が本質的に非地域性をはらむがゆえに、学習者は、出郷者=脱出者として、地域/先行世代に対するうらぎりものとなる、宿命を指摘した。■つけくわえるなら、「故郷喪失者(Homeless Mind)」=孤独な たましいにとって、「生業」が かりに みつかっても、精神面での「うけざら」が、「故郷」には、もはやない。
■先日は、学術知が本質的に非地域性をはらむがゆえに、学習者は、出郷者=脱出者として、地域/先行世代に対するうらぎりものとなる、宿命を指摘した。■つけくわえるなら、「故郷喪失者(Homeless Mind)」=孤独な たましいにとって、「生業」が かりに みつかっても、精神面での「うけざら」が、「故郷」には、もはやない。
■以下、木村先生の「田舎のパラドックス」のうち、引用しなかった部分の抜粋。
ここに地域社会の一つの家族を想定してみよう。その家族の一人は高校生である。それも進学校へと進んでおり、その家の〈自慢〉の息子である。……しかし、この風景を別の断面で切り取ったとき、私たちが「ふるさと・家族」に寄せる情緒的な世界とは裏腹の暗澹たる世界がそこに現出するのである。
息子は朝せわしなく登校する。そして、学校から帰り、束の間の団欒をすませると勉強部屋にひきあげる。そこでの営みは今説明した高校教育の世界である。彼は、彼の家族には介入できない世界で一人格闘する。その格闘は、彼だけ家族から切れ、孤独に、それもふるさと・家族から脱出してゆこうとする努力として行われてゆく。彼の努力は家族からの逃走、さらにいうなら、家族・ふるさとの階層からの〈成り上がり〉として行われていく。彼は彼を育ててくれたふるさとを踏み台にして脱出してゆく。教師はそれを励まし、家族はこともあろうにそれを喜び、自慢し、応援する。それが地域社会の「教育とふるさと・家族」の基本的構造である。
【中略】
私はここまで「ふるさと」を人が生まれ、育った地というように考えてきた。そこには切り離しがたく「家族」がいる。……そうしたとき、高校という小窓から見える「ふるさとと家族」は捨て去られるものとして映ってきた。そこは教材の中心として現れることもなく、最終的に帰る場所でもなかった。
その事態に対し、「地方分権を」「過疎対策を」「産業の地方移転を」ということが叫ばれてきた。家族も地方も霞を食べて生きているわけではない。生活が保障されるシステムもなく「地方に根づけ」「地方へ帰ってこい」とはいえない、と。もちろん、こうした前提なくして教育の分権化など空疎な空論であることは私も承知している。しかし、教育という場に生きる私には私の立場として何ができるかが最も大切なことなのである。
■すでにかいたとおり、ハラナ個人のばあい、「故郷」といった空間イメージに、感傷的な感情は存在しない。室生犀星が、どういうつもりでよんだかしらないが、世間で理解されているような、「遠きにありて 思うもの……」といった、コンプレクスとは無縁なのだ。■先生たちも、故郷から人材が流出していくとか、輩出しなければ、といった意識をもたなかっただろうし、前身を旧制中学、そのまた前身が藩校だったという、いなかにありがちな伝統=プライドが、組織だった進路指導に、およびごしにさせる、ふんいきさえあったとおもう。■では、ハラナの おやたちが、なにを おもっていたかとえば、現実問題 地域にしばりつけることはできないだろうという認識はもっていた。ひょっとすると、白川先生を、いくまわりか こぶりにしたような、「東京/じもとを往復する人材」になるよう、期待していたかもしれない(笑)が、「凱旋」と「老後」は、たのしみにしても、地域に還元=恩がえしできる人材、といった発想には、たっていなかっただろう。■人口が、長期的に滞留する空間ならともかく、かなりの流動性をかかえる時空のばあい、風土に対する愛着・地域にねざした人脈といった 地域性が、世代継承できる保証などないこと、「すめば みやこ」で、「ひとは かなりの程度、うつりすんでいくものだ」という 人生観があって、それは それで 現実的だったとおもう。■それは、多分に「郊外」化し、「ファスト風土」化が すすみつつあった「郷土」の現実、濃厚な人脈/体験がない人物にとって、「かけがえのなさ=交換不可能性」が そなわっていない状況への、ある種 必然的な反応だったといえよう。
■その意味では、木村先生が 問題化した「地域」とは、問題の所在が かなりズレるだろうが、普遍性をおびた知にふれてしまった存在にとっては、生活空間とは、偶然と選択の合力なのであって、地縁・血縁が第一義ではないのだ。■ネット上とか学界、ジャーナリズムとかといった次元でいうなら、日本語空間など 言語文化的な「わく」は あっても、基本的に半径数十キロ圏内におさまるだろう 居住地、生業空間は、決定的ではない。■そんな知的文化的空間認識にとって、出身地という時空など、「日常的におもいだしたりはしない、過去・遠方」でしかない。
私は、こんなことを思い描いている。ふるさとと家族が中心として登場してくる教科書というものはできないものだろうか。そこに家族やふるさとが抱える問題、言ってみれば溜め息や苦労が出てくる。家族やふるさとがどのような楽しみを持っているか。どんな夢を抱き、そのためにどんな準備をし、どんな努力を日々重ねているのか。要するにふるさとで生きるということがそこに現れてくる教科書である。後に続く者たち、つまり教育を受ける者たちはこの教科書を通してそうした現実を改めて知り、自分たちはどうするのかと考える――そういう教科書はできないものだろうか。一ついえることは、この種類の教科書は決して中央ではできないということである。というのも、そうした教科書がそのふるさと固有の教科書だからだ。
例えば、東北地方に生活するということと東京に生活することを比較して考えてみよう。そこに家族が暮らしていること。そこに「経済」もあり、人と人が関係することによって「政治」も生まれてくること。つまり、家族を包む地域社会というものが存在することに変わりはない。しかし、その抱える問題はかなり異なる。一方は、過疎に悩み、そのなかで高齢化がすでに大きな問題になっている。米の問題も都市にとっての意味あいとはかなり異なるはずである。一方、東京に生活している人間にとって切実な問題も東北とはかなり異なるはずである。ゴミの問題をはじめとする環境の問題の重さ。非行、犯罪の増加、核家族化のなかでの高齢化の問題、等々。こうした違いが存在するのにもかかわらず、現在の教科書は全国同じような編集をすることになっている。「過疎」が問われる東北でも「過疎」についてふれられるページはせいぜい数ページであり、それは「過疎」ということが問題とならない東京においても同じページ数なのである。何も、都市と地域が同じ配列の教科書を使う必要はないのではないか。重点の場所のズレや知識の当事者にとっての遠近のズレが配列・構成の相違や記事の濃淡の相違として現れていいのではないかと私は考える。これだけ、日本の社会全体が均質化してきたのである。当然、教科書にもその反映があっていい。しかし、そうした状況のなかでも、地域によって現れる教材の当事者への軽重は当然あるはずである。私はそういうふるさとの手による、ふるさと固有の教科書というものを通して、教育の地方分権を考えてみたいと思うのだ。
私は家族がその教科書を眺め、「そうだよ、このことでな、今、お父さんは頭を痛めているんだよ」とある種の充実感をもって話せるものにならないものかと考える。地域を離れて教科書をみたとき、思わず「そうなんだ。これが俺のふるさとだったんだ」と懐かしく手に取ることのできる教科書。そのふるさとの抱えるる問題への解決を探りたいから大学へ向かうのだ、という教科書があればと思うのだ。
しかし、それは地方に住む私たちが中央から自立し、自分たちの言葉で地方を捉え、語り始めなければいけないのだということを私たちに教える。つまり、結局は分権も、自分の生まれ、育った地への愛着と何より自立というあたりまえの行動から始まるのだということなのである。
■以前にも紹介した ましこ・ひでのり『イデオロギーとしての「日本」』という本では、沖縄の日本史教員である、新城俊昭[あらしろ・としあき]先生の『高等学校琉球・沖縄史』(これも、以前紹介した)をとりあげつつ、地域性/民族性を無視した一元的カリキュラムが地歴科/国語科で自明視される構造を、きびしく批判している。■すくなくとも 琉球列島や旧蝦夷地とか、律令体制=天皇制の拡大として連続性が自明視されてきた「日本史」イメージにはおさまらないし、そんな時空上の連続性イメージは、イデオロギーにすぎない。それを、相対化する視座をあたえずに、あたりまえのように国民的素養として あてがうなんざ、「国家のイデオロギー装置」だろ、って、キツい攻撃をくわえている。■ましこさんに、かぎらず いろんな人物がくりかえしてきたとおり、「サクラが4月上旬にさく」なんて季節感=イメージは、北緯35度前後の「季語」的感覚なのであり、そんなもの、東北以北、九州・南四国以南になど、あてはまらない。
■4半世紀まえぐらいまでの家庭科とか保健体育の教科書では、オンナの子たちの結婚・出産・育児の 「ライフサイクル=標準的モデル」が、当然のようにあてがわれていた。■おなじように 地歴科の一元的カリキュラムにも、文部科学省と学界が、厚生労働省=旧内務省的な 管理=支配の感覚を、無自覚だろうけど もちこんで、「総力戦体制」に加担しているんじゃないか? ■先日紹介した、スイス政府の「民間防衛」マニュアルみたいな 感じで、「国土」という 時空概念として統合され、最終的には 「国防」意識として 動員されていくと。
■もちろん、ことは、地歴科/国語科にかぎられない。■「政治経済」みたいに、地域性が二義的になりそうな、普遍的知の領域だって、ミクロ経済学の一部に支配的な、市場万能主義イデオロギーを たれながすなら、充分「国家神学」の しもべだ。■「現代社会」だって、反動的に 社会学周辺の知を つまみぐいして、「社会秩序」のメカニズムとか、「社会病理」「民族問題」との つきあいかた、といった 国家官僚的関心からだけ 援用するなら、「監視社会=『1984年』的空間」の 管理モニターでしかないからね。
【追記】木村先生から、前回分に コメントをいただいた。■そこへの おへんじには、全然なっていないが、ちょっとだけ追加。
■地域の過疎化/里山の荒廃は、「いなかで第一次産業をまじめにやって、生産物をかいたたかれる」「地方都市に進出した工場でこきつかわれたあげく、アジア諸地域の やすい労働力と『競争』させられて、放りだされる」という理不尽に、わかもの世代が ごく まっとうに反応し、にげだしたせいだとおもう。■その結果、環境浄化装置/生鮮食料品供給地として、一部は今後も存続するとはいえ、長期的には、相当地域が「廃村」化していくだろう。「東海道新幹線周辺および各ブロック中核都市」以外の 中小都市も、「ウォルマート化」/郊外ショッピングモール化/アマゾン化を すすめることで、「自滅」の みちを あゆんでいるとおもわれる。■わかい世代の流出と、自動車を駆使できない高齢者の 「障碍者」化。つまりは 地域全体の「少子高齢化」が 劇的にすすむからだ。
■郵政民営化は、財政改革/行政改革を「はたがしら」にしているが、所詮は、新型リベラリズム(neo-liberalism)にたつ 政官財エリートが、地方からの収奪をみかぎり、「還元」をきる方向に カジをきったということだ。■「土木工事景気の波及と老人医療は、まかせろ」と、地方議員に吹聴させることで成立した地方支配=収奪構造だったが、「建設族と郵政族の票田では、国政で多数派形成ができない」。「もはや都市部の〈ネオ・リベ〉サラリーマン層/中小企業経営者層を、なっとくさせられない」と、都市型保守層(≒ネオ・リベ)への くらがえを はかりつつあるのだ。■さすがに、今回の選挙で はっきりすることは ないかもしれないが、都市部の ぶあつい浮動票が、自民党の 郵政改革支持派を 圧勝させたとしたら、それは 戦後の自民党主導の 政治経済構造が 劇的に変革される 「序曲」といえるだろう。
■こういった、「地方への背信」行為は、代々郵政族だった小泉一族の 3代目が、郵政族というネットワークを みかぎったという 経緯は、おもたい。先日とりあげた 「年次改革要望書」って「外圧」だけでは、説明つかないからね。
■「地方きりすて」で、つぎの収奪さきは どこか? はっきりしている。アジア諸地域だ。■トヨタの ように、全県を「企業城下町」化したような 企業グループはともかく、国外移転できる生産拠点は、なだれをうって 流出するだろう。■国内にとどまる生産拠点とか、生鮮食料品などの供給地とは、国外の 「やすい労働力」に たちうちできるだけの いいかえれば、技術移転困難な 驚異的な技法とか、特殊な自然環境だけが産出できる特産品を ブランド化できたところだけ。それ以外は、モノづくりは 壊滅的打撃をうけ、第3次産業の「勝者」と、かれらに収奪される労働者層に、2分化されていくだろう。
■戦後の「土建金融資本主義」「政官財癒着構造」は、世界の南北問題ほどには、エゲツなくすすまず、ムチに 対応する アメがあった。「福祉国家という生活互助会」という理念が 否定できなかったからだ。■しかし、パワー・エリートたちが 旧内務省的支配を放棄し、「世界化のなかの多国籍企業立国」路線へと 全面的にのりかえたとき、「植民地」を「独立」させて、「自助努力の失敗」ぶりを 冷笑的に つきはなしたヨーロッパ諸国のように、それまでの収奪の歴史=「恩恵」を みごとに わすれたかのように、「自主財源」主義が横行するだろう。
■こういった みもふたもない構造に対抗/抵抗する 具体的方策が てもとにあるわけでは ない。しかし、こういった収奪構造、格差構造が いいわけは ない。■そして、森を ふくめた 自然の 収奪体制が せいぜい数百年しか つづかなかった という経験知(たとえば、平安京は、1200年以上の歴史をもつが、巨大な収奪装置としては、800年で おいおとされた)からすれば、化石燃料をふくめた 有機化合物を 周囲から かきあつめる 現代文明が「持続可能な開発システム」とは、とうてい おもえない(北米的な意味で、化石燃料を 無政府状態で浪費しつづける クルマ文明どっぷりの「地方」もね。笑)。
■地域が、自律的な空間として、収奪されるだけの 存在から 自立/解放されるための 普遍知こそ、もとめられねばならないし、現状の 学校知が、そのまま たれながされるかぎり、収奪装置を 合理化/加速化することはあっても、解放の 方向性は みあたるまい。
ここに地域社会の一つの家族を想定してみよう。その家族の一人は高校生である。それも進学校へと進んでおり、その家の〈自慢〉の息子である。……しかし、この風景を別の断面で切り取ったとき、私たちが「ふるさと・家族」に寄せる情緒的な世界とは裏腹の暗澹たる世界がそこに現出するのである。
息子は朝せわしなく登校する。そして、学校から帰り、束の間の団欒をすませると勉強部屋にひきあげる。そこでの営みは今説明した高校教育の世界である。彼は、彼の家族には介入できない世界で一人格闘する。その格闘は、彼だけ家族から切れ、孤独に、それもふるさと・家族から脱出してゆこうとする努力として行われてゆく。彼の努力は家族からの逃走、さらにいうなら、家族・ふるさとの階層からの〈成り上がり〉として行われていく。彼は彼を育ててくれたふるさとを踏み台にして脱出してゆく。教師はそれを励まし、家族はこともあろうにそれを喜び、自慢し、応援する。それが地域社会の「教育とふるさと・家族」の基本的構造である。
【中略】
私はここまで「ふるさと」を人が生まれ、育った地というように考えてきた。そこには切り離しがたく「家族」がいる。……そうしたとき、高校という小窓から見える「ふるさとと家族」は捨て去られるものとして映ってきた。そこは教材の中心として現れることもなく、最終的に帰る場所でもなかった。
その事態に対し、「地方分権を」「過疎対策を」「産業の地方移転を」ということが叫ばれてきた。家族も地方も霞を食べて生きているわけではない。生活が保障されるシステムもなく「地方に根づけ」「地方へ帰ってこい」とはいえない、と。もちろん、こうした前提なくして教育の分権化など空疎な空論であることは私も承知している。しかし、教育という場に生きる私には私の立場として何ができるかが最も大切なことなのである。
■すでにかいたとおり、ハラナ個人のばあい、「故郷」といった空間イメージに、感傷的な感情は存在しない。室生犀星が、どういうつもりでよんだかしらないが、世間で理解されているような、「遠きにありて 思うもの……」といった、コンプレクスとは無縁なのだ。■先生たちも、故郷から人材が流出していくとか、輩出しなければ、といった意識をもたなかっただろうし、前身を旧制中学、そのまた前身が藩校だったという、いなかにありがちな伝統=プライドが、組織だった進路指導に、およびごしにさせる、ふんいきさえあったとおもう。■では、ハラナの おやたちが、なにを おもっていたかとえば、現実問題 地域にしばりつけることはできないだろうという認識はもっていた。ひょっとすると、白川先生を、いくまわりか こぶりにしたような、「東京/じもとを往復する人材」になるよう、期待していたかもしれない(笑)が、「凱旋」と「老後」は、たのしみにしても、地域に還元=恩がえしできる人材、といった発想には、たっていなかっただろう。■人口が、長期的に滞留する空間ならともかく、かなりの流動性をかかえる時空のばあい、風土に対する愛着・地域にねざした人脈といった 地域性が、世代継承できる保証などないこと、「すめば みやこ」で、「ひとは かなりの程度、うつりすんでいくものだ」という 人生観があって、それは それで 現実的だったとおもう。■それは、多分に「郊外」化し、「ファスト風土」化が すすみつつあった「郷土」の現実、濃厚な人脈/体験がない人物にとって、「かけがえのなさ=交換不可能性」が そなわっていない状況への、ある種 必然的な反応だったといえよう。
■その意味では、木村先生が 問題化した「地域」とは、問題の所在が かなりズレるだろうが、普遍性をおびた知にふれてしまった存在にとっては、生活空間とは、偶然と選択の合力なのであって、地縁・血縁が第一義ではないのだ。■ネット上とか学界、ジャーナリズムとかといった次元でいうなら、日本語空間など 言語文化的な「わく」は あっても、基本的に半径数十キロ圏内におさまるだろう 居住地、生業空間は、決定的ではない。■そんな知的文化的空間認識にとって、出身地という時空など、「日常的におもいだしたりはしない、過去・遠方」でしかない。
私は、こんなことを思い描いている。ふるさとと家族が中心として登場してくる教科書というものはできないものだろうか。そこに家族やふるさとが抱える問題、言ってみれば溜め息や苦労が出てくる。家族やふるさとがどのような楽しみを持っているか。どんな夢を抱き、そのためにどんな準備をし、どんな努力を日々重ねているのか。要するにふるさとで生きるということがそこに現れてくる教科書である。後に続く者たち、つまり教育を受ける者たちはこの教科書を通してそうした現実を改めて知り、自分たちはどうするのかと考える――そういう教科書はできないものだろうか。一ついえることは、この種類の教科書は決して中央ではできないということである。というのも、そうした教科書がそのふるさと固有の教科書だからだ。
例えば、東北地方に生活するということと東京に生活することを比較して考えてみよう。そこに家族が暮らしていること。そこに「経済」もあり、人と人が関係することによって「政治」も生まれてくること。つまり、家族を包む地域社会というものが存在することに変わりはない。しかし、その抱える問題はかなり異なる。一方は、過疎に悩み、そのなかで高齢化がすでに大きな問題になっている。米の問題も都市にとっての意味あいとはかなり異なるはずである。一方、東京に生活している人間にとって切実な問題も東北とはかなり異なるはずである。ゴミの問題をはじめとする環境の問題の重さ。非行、犯罪の増加、核家族化のなかでの高齢化の問題、等々。こうした違いが存在するのにもかかわらず、現在の教科書は全国同じような編集をすることになっている。「過疎」が問われる東北でも「過疎」についてふれられるページはせいぜい数ページであり、それは「過疎」ということが問題とならない東京においても同じページ数なのである。何も、都市と地域が同じ配列の教科書を使う必要はないのではないか。重点の場所のズレや知識の当事者にとっての遠近のズレが配列・構成の相違や記事の濃淡の相違として現れていいのではないかと私は考える。これだけ、日本の社会全体が均質化してきたのである。当然、教科書にもその反映があっていい。しかし、そうした状況のなかでも、地域によって現れる教材の当事者への軽重は当然あるはずである。私はそういうふるさとの手による、ふるさと固有の教科書というものを通して、教育の地方分権を考えてみたいと思うのだ。
私は家族がその教科書を眺め、「そうだよ、このことでな、今、お父さんは頭を痛めているんだよ」とある種の充実感をもって話せるものにならないものかと考える。地域を離れて教科書をみたとき、思わず「そうなんだ。これが俺のふるさとだったんだ」と懐かしく手に取ることのできる教科書。そのふるさとの抱えるる問題への解決を探りたいから大学へ向かうのだ、という教科書があればと思うのだ。
しかし、それは地方に住む私たちが中央から自立し、自分たちの言葉で地方を捉え、語り始めなければいけないのだということを私たちに教える。つまり、結局は分権も、自分の生まれ、育った地への愛着と何より自立というあたりまえの行動から始まるのだということなのである。
■以前にも紹介した ましこ・ひでのり『イデオロギーとしての「日本」』という本では、沖縄の日本史教員である、新城俊昭[あらしろ・としあき]先生の『高等学校琉球・沖縄史』(これも、以前紹介した)をとりあげつつ、地域性/民族性を無視した一元的カリキュラムが地歴科/国語科で自明視される構造を、きびしく批判している。■すくなくとも 琉球列島や旧蝦夷地とか、律令体制=天皇制の拡大として連続性が自明視されてきた「日本史」イメージにはおさまらないし、そんな時空上の連続性イメージは、イデオロギーにすぎない。それを、相対化する視座をあたえずに、あたりまえのように国民的素養として あてがうなんざ、「国家のイデオロギー装置」だろ、って、キツい攻撃をくわえている。■ましこさんに、かぎらず いろんな人物がくりかえしてきたとおり、「サクラが4月上旬にさく」なんて季節感=イメージは、北緯35度前後の「季語」的感覚なのであり、そんなもの、東北以北、九州・南四国以南になど、あてはまらない。
■4半世紀まえぐらいまでの家庭科とか保健体育の教科書では、オンナの子たちの結婚・出産・育児の 「ライフサイクル=標準的モデル」が、当然のようにあてがわれていた。■おなじように 地歴科の一元的カリキュラムにも、文部科学省と学界が、厚生労働省=旧内務省的な 管理=支配の感覚を、無自覚だろうけど もちこんで、「総力戦体制」に加担しているんじゃないか? ■先日紹介した、スイス政府の「民間防衛」マニュアルみたいな 感じで、「国土」という 時空概念として統合され、最終的には 「国防」意識として 動員されていくと。
■もちろん、ことは、地歴科/国語科にかぎられない。■「政治経済」みたいに、地域性が二義的になりそうな、普遍的知の領域だって、ミクロ経済学の一部に支配的な、市場万能主義イデオロギーを たれながすなら、充分「国家神学」の しもべだ。■「現代社会」だって、反動的に 社会学周辺の知を つまみぐいして、「社会秩序」のメカニズムとか、「社会病理」「民族問題」との つきあいかた、といった 国家官僚的関心からだけ 援用するなら、「監視社会=『1984年』的空間」の 管理モニターでしかないからね。
【追記】木村先生から、前回分に コメントをいただいた。■そこへの おへんじには、全然なっていないが、ちょっとだけ追加。
■地域の過疎化/里山の荒廃は、「いなかで第一次産業をまじめにやって、生産物をかいたたかれる」「地方都市に進出した工場でこきつかわれたあげく、アジア諸地域の やすい労働力と『競争』させられて、放りだされる」という理不尽に、わかもの世代が ごく まっとうに反応し、にげだしたせいだとおもう。■その結果、環境浄化装置/生鮮食料品供給地として、一部は今後も存続するとはいえ、長期的には、相当地域が「廃村」化していくだろう。「東海道新幹線周辺および各ブロック中核都市」以外の 中小都市も、「ウォルマート化」/郊外ショッピングモール化/アマゾン化を すすめることで、「自滅」の みちを あゆんでいるとおもわれる。■わかい世代の流出と、自動車を駆使できない高齢者の 「障碍者」化。つまりは 地域全体の「少子高齢化」が 劇的にすすむからだ。
■郵政民営化は、財政改革/行政改革を「はたがしら」にしているが、所詮は、新型リベラリズム(neo-liberalism)にたつ 政官財エリートが、地方からの収奪をみかぎり、「還元」をきる方向に カジをきったということだ。■「土木工事景気の波及と老人医療は、まかせろ」と、地方議員に吹聴させることで成立した地方支配=収奪構造だったが、「建設族と郵政族の票田では、国政で多数派形成ができない」。「もはや都市部の〈ネオ・リベ〉サラリーマン層/中小企業経営者層を、なっとくさせられない」と、都市型保守層(≒ネオ・リベ)への くらがえを はかりつつあるのだ。■さすがに、今回の選挙で はっきりすることは ないかもしれないが、都市部の ぶあつい浮動票が、自民党の 郵政改革支持派を 圧勝させたとしたら、それは 戦後の自民党主導の 政治経済構造が 劇的に変革される 「序曲」といえるだろう。
■こういった、「地方への背信」行為は、代々郵政族だった小泉一族の 3代目が、郵政族というネットワークを みかぎったという 経緯は、おもたい。先日とりあげた 「年次改革要望書」って「外圧」だけでは、説明つかないからね。
■「地方きりすて」で、つぎの収奪さきは どこか? はっきりしている。アジア諸地域だ。■トヨタの ように、全県を「企業城下町」化したような 企業グループはともかく、国外移転できる生産拠点は、なだれをうって 流出するだろう。■国内にとどまる生産拠点とか、生鮮食料品などの供給地とは、国外の 「やすい労働力」に たちうちできるだけの いいかえれば、技術移転困難な 驚異的な技法とか、特殊な自然環境だけが産出できる特産品を ブランド化できたところだけ。それ以外は、モノづくりは 壊滅的打撃をうけ、第3次産業の「勝者」と、かれらに収奪される労働者層に、2分化されていくだろう。
■戦後の「土建金融資本主義」「政官財癒着構造」は、世界の南北問題ほどには、エゲツなくすすまず、ムチに 対応する アメがあった。「福祉国家という生活互助会」という理念が 否定できなかったからだ。■しかし、パワー・エリートたちが 旧内務省的支配を放棄し、「世界化のなかの多国籍企業立国」路線へと 全面的にのりかえたとき、「植民地」を「独立」させて、「自助努力の失敗」ぶりを 冷笑的に つきはなしたヨーロッパ諸国のように、それまでの収奪の歴史=「恩恵」を みごとに わすれたかのように、「自主財源」主義が横行するだろう。
■こういった みもふたもない構造に対抗/抵抗する 具体的方策が てもとにあるわけでは ない。しかし、こういった収奪構造、格差構造が いいわけは ない。■そして、森を ふくめた 自然の 収奪体制が せいぜい数百年しか つづかなかった という経験知(たとえば、平安京は、1200年以上の歴史をもつが、巨大な収奪装置としては、800年で おいおとされた)からすれば、化石燃料をふくめた 有機化合物を 周囲から かきあつめる 現代文明が「持続可能な開発システム」とは、とうてい おもえない(北米的な意味で、化石燃料を 無政府状態で浪費しつづける クルマ文明どっぷりの「地方」もね。笑)。
■地域が、自律的な空間として、収奪されるだけの 存在から 自立/解放されるための 普遍知こそ、もとめられねばならないし、現状の 学校知が、そのまま たれながされるかぎり、収奪装置を 合理化/加速化することはあっても、解放の 方向性は みあたるまい。








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↓ 以前、高専に通っていたことのある方のサイトを見て考えさせられた。
http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/impression.htm#050901
ある理工系の教授から、優秀な高専出身の技官について聞かされたことがある。その人は、がんばり屋で、単なるアシスタントではな... [ReadMore]